COCA-COLA NO.1 #2


 

 
ンサンタラコカコ Coca Cola Tansan

1919年(大正8年)に明治屋がコカコラタンサンという名前で一時輸入販売を行なったこともありま
した。「写真のボトルは明治屋が輸入したボトルと同じタイプですが、そのものではありません」。

このショルダー・スクリプトに紙のラベルが貼ってあるものは、1970年代に入るとアメリカ各地で75
周年記念ボトル(ラベルは紙ではなくボトルに直接印刷)として出されました。また75周年ボトルをべースに東京コカ・コーラボトリング創立25周年ボトルなどが作られました。記念ボトルは、コカ・コーラのコレクターさんでなくても、持ってる方多いと思います。又、このボトルは古いボトルより記念
ボトルのイメージが強いと思います。








ラベル

ちょっと前に戻る様な感じですが、当時全てのハッチンソン・ストッパーボトル、ストレート・サイドボトルは、この様なラベルを貼って販売されてました(ハッチンソンボトルに関しては、僕の推測ですが、条件は同じです)。私は長い間、ラベルを貼って販売したのは、ショルダー・スクリプトやベース・スクリプトだけだと思ってました。丁度いい位置にラベルが貼れるからです(ヴァーティカル・
アロー・スクリプトなんかは、うまく貼れませんので)。これは間違いでした、空のボトルですとエンボスでコカ・コーラと確認できますが、実際コカ・コーラを入れると、黒く見える様になり、少し離れるとコカ・コーラかペプシか分からなくなります。前に書きましたが、当時全ての飲料はストレートボトルだったため、何かの目印が必要になります。即ちラベルが貼ってあるわけです。
詳しくは、アメリカのボトルを参照して下さい。

現在でも、ビール、ワインなどはラベルが貼ってありますよね、ラベルがないとアサヒなのかキリン
なのかわかりません。全て同じ様なボトルですので・・。

※これは明治屋が輸入したボトルに貼ってあったラベルと、同じものです。




戦争とコカ・コーラ

1941年(昭和16年)12月8日に日本はアメリカに対して宣戦を布告し、4年後の1945年(昭和20年)
8月12日に敗戦となったのは、皆さんもご承知のとおりです。敗戦後に沢山の米兵と共に入ってきたコカ・コーラだったが、それだけでは輸送に手間がかかり、あっという間に国内6大都市にコカ・コーラ工場を建設して、製造を始めました。

※上のボトルはその時に入ってきたボトルで、クリアー(透明)でTRDE-MARKと入ってます。





日本で初めて製造したボトル

敗戦、そして、戦後の混乱から力強く立ち直った日本で、1949年(昭和24年)に初めて国産のボ
トルを、大阪の徳永硝子が作りました。

※色はグリーンで、TRADE MARKと入ってます。







戦争のみやげ

戦後の街角で米兵が、コカ・コーラを飲んでる姿がとってもアメリカンでかっこよかったなんて言う記事を本などで見かけますが、僕も近くにそれを見た、又はもらって飲んだ方がいないかと探してみました。ガムやチョコレートをもらった記憶がある方はいましたが、残念ながらコカ・コーラはいませんでした。

友人の父が興味深いものを見せてくれました。これは焼夷弾と言いまして、米軍が日本の家屋を燃やすのに適した爆弾を開発しました。この焼夷弾は敗戦の少し前、1945年(昭和20年)7月6日の甲府(山梨県)空襲の時に落とされた、ひとつです。友人の父が空襲の翌日に、拾って、保存して
おいたものです。私がコカ・コーラボトルを大切するのと同じように、友人の父も幼少時代の思い
出として、この爆弾を大切にしていることでしょう。




ニューヨーク・タイムズ(新聞)

山梨県の甲府を空爆した模様が伝えられました。1945年(昭和20年)7月7日付。

東京の西方70マイル、海からおよそ22マイルの山岳地帯に位置する、人口102,000の甲府は、も
っとも大きい内陸都市のひとつであり、山梨県の県庁所在地である。甲府上空の我々爆撃手
は、主要な鉄道、商店、紡績工場、機械工場、兵舎などがつめこまれた、長方形の市街地の上
に、破壊するための荷物(爆弾)を投下するよう、とくに努力した。





民間にも初めてコカ・コーラが販売されました。

戦後、東京の食品問屋、小網商店の社長、高橋はとても良い情報を聞きました。米兵はコカ・コーラと言う飲み物を、好んで飲んでいて、進駐先(日本)にも工場を建設して製造している。そのうちに日本人にも販売すれば、きっとヒットするよ、まだ誰も手をつけてないから、今のうちにフランチャイズ権を取ったほうが良いと言う内容だった。だが、ふたを開けると問題が発生した、フランチャイズの承認を得ることが、なかなかできなかった。もう一つは、コカ・コーラの原液を輸入するための外貨割当を、日本政府から得ることでした。

時が経って、高橋はフランチャイズ権は取ったが、他の清涼飲料水業者に反対されて、主な販売は外国人向けでした。1961年(昭和36年)になると民間にも自由にコカ・コーラが買えるようになりました。

一方、沖縄では本土より10年近く前から、民間にもコカ・コーラが販売されました。当時沖縄は、事情により、「カリフォルニア州、オキナワ」でした。アメリカなら制限なくコカ・コーラが買えることに
なります。

終戦から60年が過ぎました。アメリカから進駐軍と共に日本に渡ったコカ・コーラは、高橋が大変な努力をして、コカ・コーラを日本に広げてくれました。私達日本人にも、最もポピュラーなブランドになりました。

※このボトルは民間向け初のボトルで、白でコカ・コーラと印刷され、浮き彫りで登録商標と入っています。





1950年代初期の貴重なポスター(オキナワ)





高梨仁三郎 1904-1993

1904年(明治37年)、千葉県野田市に生まれる。東京コカ・コーラボトリング(株)の創立者で、日本のコカ・コーラ事業の創始者。




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